君がいてくれたこと。




軽い眩暈は地面に打ち付けられた痛みで吹き飛んだ。

「あいたたた…」

 タイムトラベラーのアクセルにとっては日常茶飯事のことだが、着地についてはどうしても飛ばされた場所によっては怪我をする。
 打撲くらいで済むのであればかわいいものかもしれないが、それでも痛いものは痛い。

「今度は何処かなぁ」

 打ち付けた腰を擦りながら立ちあがる。
 どうやら煉瓦通りの道の真ん中に放り出されたようだ。
 その道は見慣れた光景だった。

「俺様ツイてる〜♪」

 見慣れた街並みが、パリの、しかも知り合いが存在する時間帯だと知ると、痛みも吹っ飛んだ。

そう思えばといわんばかりに、急に腹が鳴った。
 時間らしい時間の中で生きられないアクセルにとって、腹時計は唯一アクセルに24時間を教えてくれた。
 しかしその腹時計を狂わせないためには、適度な食事が必要である。

 街中というよりは住宅街。
 この煉瓦通りをこのまま進めば、目的の場所まですぐにつく。
 こんな昼間に彼がいるかはある意味賭けだったが、今日が休日であれば会える可能性が高い。

 浮き立つ足で煉瓦通りを歩いていく。
 過ごしやすい気候だ。
 今の服装で寒くもなく暑くもない。

 大股で歩いていけば、目的の家はすぐ視界に入った。
 相変わらず綺麗な佇まいだと思う。
 家主がいたら―いつも迷惑をかけていると思うが―嫌な顔一つせず迎え入れてくれるだろう。

 玄関前まで辿り着き、その門に手を掛けて、ふとポストを見た。
 どこか寂しげな感じがした。今日は偶々だろうか。郵便受けには、何も投函されいない。それが―そんなはずはないのだが―もうずっと使われていないように見えた。
 玄関も見た。やはりどこか寂しげに映った。

 なんだろう、使われていない気がするのだ。

 玄関ポストを撫でれば、少し埃っぽい気がした。

「アクセルさん、ですか?」

 玄関まで行こうかどうか迷っていたアクセルの背中に声が投げかけられた。
 しかしそれは聞き馴染まない声で、振り向けば、やはり見慣れない顔がそこにある。
 ただその服装は見慣れていた。

「警察機構の者です」

 二人組は、巡回の最中だったのだろうか。
 職質だろうかと身構えたアクセルに、いち早く反応した相手は、にこやかな笑顔でアクセルの発言を止めた。

「カイ様から伺っております」

 馴染みのなる名前が出て、アクセルはほっとした。
 職質などされて、アクセルの身分がはっきりと証明できず、苦労したことは数えるのもばからしい。

「よかったー、もしかしてカイちゃん、仕事中?」

 それは、タイミングが悪かったと思う。
 温かなお手製の食事に、すぐにはありつけそうにない。
 アクセルは今し方感じていた寂しさなど忘れていた。

 しかしそれを呼び戻したのは、二人組が寂しげに顔を見合わせたからだ。

「…カイちゃん、どうかしたの??」

 一瞬の内にいやな想像がいくつも廻った。
 しかし回答は、意外と優しかった。

「カイ様は、ご健在ですよ?」

 アクセルの顔がこの世の終わりみたいな顔だったのか、二人は慌てて否定した。

「ただ、もうこちらにはお住まいではありません」

 その言葉はアクセルの中にすとんと落ちた。
 あぁ、だからこの家は寂しげに映ったのか、と。

「引っ越し?」
「はい」
「どこに?」

 教えてくれるのだろうかと、少し心配になったが、相変わらず寂しげな表情のまま教えてくれた。

「イリュリア連王国国王に当選されて、今はそちらにお住まいです」

 それは、初耳だった。
 国王…という単語がアクセルの舌の上で転がる。

「我々でも、謁見を得るのに何か月かかかってしまいます」

 実感がないまま、雲の上の人になってしまった人は、この度は会うことさえ出来ないだと知る。
 ちゃんと身分がある人でも会うのにそれだけ時間がかかるということは、身分が証明出来ないアクセルは見えることさえ困難だろう。

 この時代でのよりどころだったのに、そこは既に頼れないことが、こんなにも悲しい。
 それは糧を失ったからというよりは、ただ単に寂しいと思うのだ。
 アクセルの事情を知り、そして心地よく受け入れてくれる人は、なかなかいない。
 食糧や寝床より、ただそれを知って受け入れてくれることその事が、ただ嬉しかった。

 いつの間にか視線が落ちていたアクセルの視界に、ふと差しのべられた手が見えた。

「なのでカイ様から言付かっています」

 それは、カイが笑いかけてくれる時と非常によく似た笑顔だった。

「『もし私の家に、金髪のイギリス人で、アクセルという人が立ち寄ったら、食事と寝床と、適度な労働を与えて下さい』と」
「それが退職の時の、カイ様からのお願いですよ?」

 そういって二人は、懐かしむように愛しむ様に、カイの退職の日の様子を語った。
 皆から退職を惜しまれつつ、しかし次なる段階はあまりに飛躍で、止められようもなく。
 最後の出勤日は仕事にならないくらい、後から後から花束を持った職員が詰めかけた。
 カイはそれを無下に扱うことなく、一人一人に別れを述べて言ったという

 そして誰かが言ったのだという。何か出来ることはないのかと。
 それは何人もの人間が尋ね、その度にカイはこうして惜しんでくれるだけで十分だと。
 しかしふと思い出したように、「あ」っと声を上げたカイは、急に一つだけ頼みごとをした。
 カイが唯一で最後の頼みごとを叶えようと、その場にいた者はみんなその言葉に耳を傾けたのだという。

 あまりにも必死に、彼は頼んだという。
 これだけがどうしても気がかりで困るのだと。
 自分の為でなく、自分の利益の為でなく、いつ来るともしれない友人を助けれらないことが気がかりだと。

 あぁ、カイ様らしいと誰かが笑った。
 つられてみんな笑った。
 ただ一人だけカイは笑わず抗議した。

 叶えてあげたい願いは、それはカイにとって何かしら利益になることだったのに。
 当の本人だけはそのことを理解してくれなかった。
 そんな彼だから付き従ってきたのだけれども。

「カイ様の唯一の願いですから、我々は全力で叶えてみせます」

 だからこの手をとってくれないかと。
 温かな職場だと思った。
 それは警察機構の利益にも何にも、むしろ損失にしかならないのに、上官の最後の願いだからと快諾してしまえるこの職場は、ある意味おかしい。

 愛されているんだと、誰に何処にその愛情が注がれて嬉しいなんて、感激のあまり分からなくなっていたけれど、ただただ嬉しかった。



* * * * * * * * * * *




 軽い眩暈は、気を失ってしまっている間にどこかにいってしまった。
 温かな陽気にそのまま寝込んでしまおうかと思っていたが、腹に鈍い痛みと圧倒的な圧迫に起きた。

「ぐえっ、え、旦那?!!」
「こんなとこで寝てっと、風邪引くぞ」
「いやいやいやいや風邪引く前に肋骨折れそうだから足退けて!!」

 腹を圧迫されて呼吸しづらいのを堪えて叫ぶ。
 もう少し起こし方というものがあるだろうに。

 ふんと鼻を鳴らして足は退かされた。

「オヤジぃ、誰だよそれ」

 急に早歩きになるからびっくりしたじゃん。と言って、金髪の青年がソルの背後から出てきた。

「え、親父って、旦那こどぎゃーっ!!!」

 起き上がりかけたアクセルの腹にめがけて踵が振り落とされる。
 それを間一髪の所で転がり逃げた。
 アクセルの代わりに地面が凹む。

「オヤジ、普通の人間にそれやったら死んじまわねぇ?」
「殺る気でやってんだ」
「いや、確認だけで殺されたくないんだけど!!」

 確かに半分からかおうという気はなったけれども。

「それより旦那ぁ、俺今一文無しなんだけどさぁ」
「てめぇが金持ってたことがあんのか?」
「持ってるけどこの時代の通貨じゃないから使えないんだよぉ!!」

 アクセルの体質をよく知っている男は、分かっていながらそう投げ返す。

「ほら、ちょうどあそこに町あるからさ、そこで奢ってよ!」
「わりぃな、今あの町から出てきた所だ」

 もう用がねぇという。
 そんな殺生な!と抗議しても、今日のソルは機嫌が悪いのか、アクセルを置いてさっさと行ってしまいそうだ。

「それにな」

 なんとか引き留めようとするアクセルに、ソルは、随分機嫌の良さそうな笑みで言い残した。

「てめぇ一人で町に行ってもどうにかなるんだよ」

 その言葉の真意は分からず。
 またソルの後を追いかける青年の正体も分からず。
 久しぶりの再会にも関わらずソルはさっさと立ち去ってしまった。

 あんなに機嫌がいいのも珍しいが、それにも関わらず奢ってくれないとはいかがなものか。

 止まらないソルを見送ってから、しぶしぶと立ち上がった。



 町は質素ながらも、それでも華やかに見えた。
 戦争があった世界だとはとても思えないほど、人の笑顔が溢れた町だった。
 それでもアクセルにとっては知らない町だった。
 町には見慣れた警察機構の人間もいるようには見えなかった。
 もしかして、ここにカイでも住まっているのだろうかと思い始めた。

 あぁ、きっと全ての責から解放された彼なら、きっと好みそうな町だなと思った。

 そんなことをぼんやり考えていると、うっかり少女をぶつかってしまい、アクセルは転げてしまった。

「わぁ、ごめんなさい、お兄さん、大丈夫?」

 大きな荷物を抱えている少女は、前が見えなかったからであろう、アクセルとぶつかってしまった。

「でもお兄さん、そんな派手に転ばれたら私の方が重いみたいじゃない」

 確かに明らかに少女の方がアクセルより小さく小柄に見えるのに、ぶつかって倒れてしまったのはアクセルだけだ。
 年頃の女子にとって、それはあまり喜ばしくないのかもしれない。

「ごめんねぇ、俺今腹ペコでさ、力でないんだ」

 荷物を置いて、アクセルに手を伸ばした少女は一瞬止まる。
 少女が止まってアクセルもきょとんとした。
 何か変なことでも言っただろうか。
 しかし次の瞬間には少女は笑っていた。

「あなた、もしかして、アクセル=ロウさんですか?」

 少女との面識はない。
 それでも少女はアクセルの名前を言い当てた。

「なんで、俺の名前…」

 彼女はその身体に見合わない力でアクセルを引き上げた。

「『もし金髪のイギリス人で、アクセルという人が立ち寄ったら、食事と寝床と、適度な労働を与えて下さい』」

 それはいつかどこかで聞いたことがある言葉だった。

「なんで、その言葉を…」

 それは紛れもなく、自分のことを気遣ってくれる優しい青年の言葉だった。
 その言葉に感謝し、また彼のいない時代を彷徨い、改めてその言葉の有難さを噛みしめたのは、そう古くない昔。
 それでも過酷な現実に、立ち向かえるまで戻った所だった。

「連王様からのお願いですから」
「連…」

 連王という単語は、アクセルには馴染のない単語だった。
 しかし、それでも誰のことを示しているのかは分かった。

「連王様が…?」

 本当はその呼び名で呼ぶのは、本当は好きではない。

「はい、連王様の唯一で最後のお願いです」
「君は、連王様と顔なじみなの?」
「いいえ、連王様は私が生まれる前に崩御されてしまいましたから、お会いしたことがないのです」

 『崩御』という単語の意味を、アクセルは汲み取りかねていた。
 それは亡くなったことを示しているのだと、時間をかけてゆっくり理解した。
 しかし少女の笑顔は明るい。
 少女は、幼く見ても13、4歳くらいだろう。
 彼女が生まれる前というと、少なくとも亡くなったのは10年以上も前だ。

「最後のって…」
「連王様が崩御される前に、おっしゃられたそうです」

 連王の死因は、不治の病だったという。
 それは非常に強い法力の持ち主だけがなる奇病で、実例が少ないため治療法が未だにわかっていなかった。特に、カイ程の若い年齢で(と言ってもアクセルにはその時カイがいくつなのか分からなかったが)発症した例はないのだという。
 ゆっくりとなだらかに、穏やかに、衰えていくのだという。

 そんな連王が、とうとう病床から起き上がれなくなった。
 何か最後に叶えられることはないかと、臣下の者が尋ねた。
 その気持ちだけで充分だと言っていた連王が、はたと思い出したように言ったのだという。

「それが…」

 それ?
 最期の願いが。

 己の願望を叶えるわけでもなく、己の家族に残すわけでもなく、どうして自分だったのだろうかと。

「もちろん、他には?と尋ねました。しかし連王様は『充分だ』とおっしゃいました」

 少女はアクセルの手を引いて歩く。
 小さな手だったが、温かかった。

「あなたのことだけは、連王様はどうしてあげることも出来ないとも言っていらっしゃったそうですよ」

 いつどこのどんな時代に行くか分からない。
 世界として広ければ時間としても限りなく。
 そうやってカイが精いっぱいに広げた輪でも、きっと彼を救いきることは出来ないだろうけれども。
 それでも、出来る限りのことはしてあげたいのだと。
 少しでも楽にしてあげたいのだと。
 帰りたい場所に帰れるまで。

「何で?」

「大切なご友人だと言われておりましたと」

 全て伝聞なのに、それはどうしてそれほど根強く、10年もの間残ったのだろう。
 それが、カイ=キスクという人間の仁徳なのだろう。

「あちらに行けば警衛隊がいます。そちらで食事と寝床と労働が与えられる筈です」

 この少女は、彼が生きている間の姿すら知らないのに。

「君は、連王様のこと好き?」

 少女はきょとんとしたが、にっこり笑って答えた。

「はい。誰よりも友人のことを思われている連王様が大好きです」

 笑顔が眩しいと思った。
 その笑顔が、やはり彼の笑い方とよく似ていると思った。
 温かで、屈託のない笑顔だ。

「でも、そんなことしてたら、悪い人が利用しちゃうんじゃないの?」

 警察機構の人間ならば、アクセルの姿を知っている人間も多いから、間違えることもないだろうが、一般市民にまでアクセルの容姿が、金髪のイギリス人だけでは分からないであろうに。
 そんな都合のいい制度を悪用しようという人間だって、居る筈だ。

「大丈夫です、連王様はおっしゃっていらっしゃいました!」

 少女は自信満々に答えた。

「『間違えようがありません。彼の笑顔は100万ドルに匹敵するのですから!』と」

 アクセルは思わず噴き出した。





* * * * * * * * * * *





「カイちゃぁあん!!!」
「アクセル?!!」

 玄関を開けたカイに、アクセルは真っ先に飛びついた。

「ありがとうー、本当にありがとうー!!」
「あの、アクセル、私は貴方に泣いて感謝されるようなことをした覚えがないのですが」

 突然の訪問者に、突然泣きつかれて、ひたすらに感謝されて、困惑せずにいられないだろう。
 それでもアクセルは感謝せずにはいられなかったのだ。

 これから何年先の話だとして、カイは、その生涯に渡って、自分を応援してくれていたのだから。
 きっと当人は、自分がそんなことをするなど想像もしていないだろう。
 アクセルは話す気もなかったし、実際それを叶えてくれなくてもよかった。もう十分だった。

「アクセル、とりあえず中に」

 どうにか落ち着けて中に入ろうとするカイの声は、先程の感激から立ち直れていないアクセルには届かなかった。
 伝えられはしないけれども、少しでもこの感謝の気持ちが伝わればいいと思う。
 そして彼が、一人でも多くの人を助けようとする彼が、誰よりも幸せになれることをひたすらに願った。
 
 未来でカイ本人に会えなかったことも手伝っているのかもしれない。
 ありったけの恩恵を受けて、ありがとうの一つも返せなくて。
 何より今目の前に、血の通うカイが、目の前で笑って受け入れたことがこれ以上になく嬉しくて。
 いつかそれも出来なくなってしまった彼が悲観して、出来る限りのことをしてくれたことが嬉しくて。

 嬉しさと感激と伝えられない歯がゆさに、アクセルは混乱していた。
 混乱して泣き咽びながら感謝した。
 彼という存在に出会えたことに。

 そんな夢心地は、大層機嫌を悪くしたソルによってみるも無残に潰された。





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 アクカイですか?いいえ、ソルカイです。

 カイが家族のことを頼まなかったのは、家族に何か残すのは自分のやることだから。