変わったことと変わらないことと。
「珈琲か?」
「え?」
「少し寄越せ」
勝手に乗り込んできて(勝手に乗り込むにしては城内の警備は強固な筈なのだが)、何を話しかけても上の空でろくな返事も寄越さなかった男が、いきなり話しかけてきた。
書類が溜まっていたから早々に話し掛けることを放棄して、どれだけ経ってからだったろうか。
一休憩にとお茶を淹れに行ったから、だいぶ時間は経過した筈だ。
「淹れようか?」
「一口でいい」
読み物から目を離さないで、右手で寄越せと催促する。
正直飲みかけを渡すくらいなら、一杯入れる方がいいのだが、男なりの気遣いだろうか?
相変わらず考えていることが分からないと思いながら、男の右手にカップを乗せた。
男が掴んだのを見計らってカイは手を放す。
相変わらず男の視線は、書物に縫い付けられている。
それでも器用に受け取った珈琲を口にする。
だから男との会話は終わったものだと思った。
一口と言ったから戻ってくるはずのカップを持って、カイは書斎の机に戻ろうとした。
しかし戻ってくるはずのカップは、相変わらず男の手の中にある。
「…ブラックか」
取り返そうかもう一杯淹れ直そうか判断する前に、男の口から洩れた。
男のその一言で、何を言いたいのか悟ってしまった。
そのことすら嘆かわしいなと思った。
「…いつまでも子供ではないぞ」
「坊やは坊やだな」
「もうすぐ三十路なのだが」
男がかけているソファの背に寄りかかる。
「一口って言った」
「けちくせぇこというんじゃねぇよ」
「だから淹れてくるかと聞いたのに」
背後から手を伸ばしてもカップは遠ざけられる。
カイも本気で取り返したいわけではない。
中途半端に伸ばした腕は途中で力を失くし、男の肩に落ちる。
「疲れてんのか?」
まるで男に抱きつくような恰好になってしまったが、だからと言って離れようとも思わなかった。
「珈琲を飲みたいと思うくらいには」
「眠いなら寝ちまえ」
「眠いわけではないんだが」
男は話の合間にまたもや珈琲を口にする。
いよいよ本格的に一口ではなくなりそうだ。
「味覚でも変わったか?」
「今でも珈琲より紅茶の方が好きだ」
「だろうな」
わかりきったことを尋ねてくるのは、この男には珍しいことだった。
カップがテーブルの上に置かれた。
カイの手の中にはもう戻って来ないだろう。
空いた手で男は少し後ろにあるカイの頭を撫ぜる。
場所を確認すると髪の中に指を差し入れて地肌を撫でた。
「少し、疲れているとか、仕事中だと、紅茶では、少し物足りないなと思うようにはなったかな」
「少し味覚変わってんじゃねーか」
「舌が鈍くなってきたかな?」
昔は、ブラックコーヒーなんて、とても飲めるものではなかった。
飲むにしてもミルクやシロップは付き物だったから、この男はそれをネタによくからかっていたものだ。
本当に、きっかけなど些細なもので。ただ甘い物を口にしたくなかったそれだけ。
昔はあれほど苦く飲めるようなものではないと思っていたはずなのに、拍子抜けだった。
一人物思いに耽っていると、男の片手が後頭部を捕まえていた。
気づいた時には眼前に顔があって、次の瞬間には唇が合わさっている。
驚きに体を引こうと思っても、がっしりととらえた右手が許さない。
鼻孔に抜ける仄かな珈琲の香り。
舌が侵入してくるといっそう強くなり、そしてそれを追いかけるように広がった苦味に、カイは抵抗を見せる。
「…っ!んーー!」
本格的に抵抗し始めたカイを尻目に、易々と抵抗を封じ込めて喉の奥に舌を進める。
逃げるよう引っ込んだカイの舌を引き出すように、絡めとって吸い上げれば抵抗は声になった。
本当にいやなのか、空いている手はソルの肩を遠慮なく叩いて降参を示していた。
唾液までしっかり吸い取った後、開放してやれば早々にカイは口を開く。
「タバコ、吸ったばかりじゃないか!」
「なんだ、これはまだ駄目か」
気づけば愉しげに嗤っているから、分かった上でキスしたのが明らかだった。
「まだまだ餓鬼だな」
「嫌いな物は嫌いだ!分かっていたくせに!」
なおも口づけようとする男に抵抗して、顔をそむける。
「タバコ吸いに出てたの、気づいてなかったのか」
「ついさっきのようだな!」
カイはソルの拘束から抜け出すとぱたぱたと駆けていく。
給湯室の方ということは、何か飲み物を取りに行ったらしい。
その反応は昔のままだ。
「今度タバコ吸ってすぐキスしたら、しばらく触らせないからな!!」
給湯室から上がる抗議に、笑った。
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変わってしまったことが切なくて、変わらなかったことが嬉しくて。